「聞いて。昨日、月の船をみたんだ!」
君が嬉々として狭い路地をはずんでまわる。月の船。たしかにそんな日本語もある。要は欠けた月をそう呼ぶ人もいる。それだけの話だったはずだ。
「月なんて珍しくも何ともないわ。毎月みれるんだもの。」
私は聞く耳も持たずに下がり気味だったマフラーを外した。三寒四温。そんな言葉がしっくりくる時期だ。明日がわからない毎日に気を立てて、毎朝毎朝が天気予報とクローゼットのにらめっこ。今日だって思ったよりも暖かくて、着込みすぎた洋服の中で、行き場のない熱に少しだけうんざりしていた。
「いーや、息吹はまだ見たことないね。月の船は特別なんだ。」
「まさか。」
意地悪く笑う君は、けれどじっと空を見つめていた。コントラストの少ない、ふんわりした空を時折薄い雲がゆったりと流れる。ついこの前までのきりりとした空とは違う、春の空だ。
「うん、今日も見れるはずだ。行こう。息吹にも見せたいんだ。」
どこへ、なんて聞く間もなく腕を引っ張られた。今から走ればまだ、間に合うよ。君がそうほほえんだとき、白いコブシの花びらが暖かい風に乗って舞い落ちる。
「見れなかったら?」
「帰りにジュースおごる。」
「なにもそこまでしなくても。」
「いいから。行こう?」

***

冬眠からさめた寝起きのカエルにも、細い路地に咲きはじめた小さな花々にも、薄雲越しにクリーム色に輝く夕日にも見向きもせず、私の手を取った君が走る。かと思ったら私が足をもつらせると少しだけスピードを落としてくれる。そういう優しさってなんだかずるい。そんなことを考えながらコートの中の気持ち悪さを少しずつ忘れていった。クリーム色の空がやがて露草色へ、瑠璃紺へと移り変わっていく。路地を抜けて街をぬけて、君について行くので精一杯で、気がついたら坂の上の公園にいた。
「大丈夫?ほら、お茶どうぞ。」
さすがに汗が心地悪くてコートを脱ぎはじめた私を認めると、苦笑いしながら水筒を差し出した。素直に受け取るとふと君の傷だらけの手が目に入った。
「なにそれ。」
「うーん、なんだろう?」
ごまかすように笑ってほら、あと五分もないよ。と月を指さした。

***

それは音もない。何の変哲もない瞬間だった。地球では5分前と同じ世界が続いてる。月でも5分前と同じ世界だ。だけど、確実に余っていたピースがかっちりはまって絵ができあがるような瞬間があった。紺青の空で瞬く星々。ふんわりと揺らぐ大気の向こうで、時折薄雲に飲まれながら船型の月がゆらゆら光っている。そうして遠くのビルの中に今にも沈みそうに重たく輝く。
「『天の海に雲の波立ち月の船 星の林に漕ぎ隠る見ゆ』。」
「ん?」
「きっとこれをみたんだ…。」
気が遠くなるほどの昔に、この景色を見た人がいる。心のどこかで、なぜかそう確信した。全く同じではなくても、この景色を見て、この瞬間きっと同じことを感じた。それは不思議な感覚だった。『月の船』という言葉を通して、会ったこともない、時代も違ういにしえの人々と心を重ねたような心地がした。そして君もまた昨日、私と同じことを感じたのかもしれない。そしてひょっとしたらほんの一瞬心重なったのかもしれない。
「月の船ってすごいね。」
「だろ?」
得意げに月をなでる君の指先をぼんやり見ていた。そうするとなぜか魔法が解けたようにだんだんと不安や未来への恐怖がよみがえって視界そのものがおぼろになっていく。君はそんな私の前に暖かいお茶を差し出すと、何かを口にするわけでもなく静かに私の側に腰掛けた。

 

”Cvn α
コルカロリ
『空で心を通わせることができる幸せ』

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