私は確か、ただ昼の遊びがしたかったのだと思う。もちろん家の裏の”秘密基地”に忘れ物をしたということもあったが、本心ではまだまだ森と戯れたかったのだろう。新緑の溢れる森というのは良いものだ。春のどこか重たいけだるさを切り裂くさわやかな風が道を開き、やっと活気を持ち始めた木々が我先にと太陽の暖かい光に手を伸ばす。その葉はつやつやとしなやかで、日を透かすとその暖かさを失わないままエメラルドグリーンに輝く。日が延びてきたとは言え、子供だった私にはまだまだ遊び足りない。昼にあれだけ美しく優しく輝く森だ。夜はどんなに素敵だろうかとよく夢にみていた。だから、秘密基地に忘れ物をしたというのは故意ではなかったとはいえ、うってつけのチャンスでもあったのだ。

「裏の森に筆箱を忘れたからとってくる。」

そう言って私は嬉々として家を飛び出した。家の裏から森に向かって走ると、ときどき生い茂る草が足を撫でてくすぐったい。秘密基地は実に近くて、走って十分くらいのところだ。逸る気持ちのままに、夜の森を夢見て駆けてきたからあっという間についた。段ボールの机の上に投げ出されたスケッチブックと筆箱をみとめると、そばにどんと腰を下ろした。こんな機会はめったにないんだ。今の森をスケッチブックに写してみよう。見上げたら自分を囲むようにのびる木々の間から星屑がはっきりと輝いている。普段見ることのできない森の姿に私はとりつかれたように鉛筆を動かした。

さぞや美しいスケッチになるだろうと思った。しかしふと我に返るとスケッチブックのページ一面ほとんど真っ黒になっていてひやりとして我に返る。まとわりつくようなじんめりした冷たい風に身構えてもう一度空を見た。無数に新樹が、暗闇を纏って私をただただ見つめている。星は燦然としているが、その光は家で見るよりもずっとひややかだ。ただ無表情に、無慈悲に、淡々と明るく光るそれは鬱然としている。風が吹くと無機質にならす多くの葉は、からからと嘲笑するようだ

”おまえはいつまでこどものわがままやゆめをふりかざすつもりなのか”

冷淡な夜の森は、浮かれてやってきた私にそう責めたてているように感じられてならなかった。気がつけば帰り道の暗闇はさらに深まって、背中を押すような強い風に私は震え上がる。裏切られたような気持ちになって私はスケッチブックと鉛筆を投げ出して、涙を荒々しく泥のついた袖で拭いながら星屑の照らす道を走り出した。
家に帰った私は大泣きしながら母にすがりついた。時計をみれば一時間くらいしか経っていない。戸惑う母の腕の隙間からもう一度空を見たら、星はいつものように遠慮がちに優しく瞬いているだけだった。

 

 

星屑や鬱然として夜の新樹 日野草城

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