『旅人の喉を潤した梅の木の話』

あるところにとても優しく美しい茶屋の娘がおりました。その小さな茶屋は街道のそばにあり、また庭に多く植わっていた梅の木が美しい花を咲かせたので、長旅で疲れた旅人の癒しの場でした。しかし父が倒れ、母が倒れ、親戚の家に行くことになった少女は、家を手放す前にこっそり一粒の梅の種を植えました。彼女の涙を吸い込んだ梅は、彼女がその地を去っても、あたりの梅が抜かれ、家の跡が荒れ野となっても、すくすくと育ち、いつしか旅人の喉をその大きな実で癒す立派な老木となりました。その茶屋の存在が、梅園の存在が、少女の存在が、在りし日の街道が忘れ去られて幾年が過ぎ去ったか、旅人が路傍の梅の木から実をもぎ取るようなことがなくなった今でも、その老木は『悲しみを癒す梅の木』として人々に愛され続けていたのです。

 

**************************

 

「ねえお母さん、やっぱりこれ派手すぎるよ。」
「なあにいってるのよ、若いんだからこんなものよ。お母さんだってさとみと同じ頃にこれを着たんだから。」

ぐい、と力いっぱい帯を引き締められ、さとみはきゅっと息を詰まらせた。鏡の中の自分の姿は赤い帯と金魚をたくさん泳がせた浴衣に完全に着られている状態だ。こんな素敵な浴衣、似合わないったら…。少し目を伏せてそう思いはしたが、気着けを終わらせほくほくとしている母にはとてもそう口には出せそうにない。そそくさと逃げるように藍色の巾着を手に持って、いってきますとほほえむと、さとみの母はいっそう誇らしげに行ってらっしゃいと手をふった。遠くからの祭囃子がうす紫色の空に響いていく。
『聞いて!ついに北村とつきあえることになったんだ!でも今日一緒にお祭りいけなくなっちゃった…。本当にごめん!今度おごるから!』

そんな親友からの詫びのメールを受け取ったのは目と鼻の先に鎮守が見えてきた頃だった。
「ええー、お母さんに友達と行くから平気っていっちゃったよ。」
そうは思っても、嬉しそうな親友に文句をいう気持ちにもなれず、かといって誇らしげだった母の元に帰るわけにも行かず、結局さとみはそのまま一人で夏祭りに行くことにしたのだった。

心の底の後ろめたさにふたをして、一人でもめいっぱい楽しむぞ、と意気込んださとみは焼きそばも食べたし、浅漬けのキュウリも丸かじりした。射的はまるで当たらなかったが、くじ引きは中当たりの小さな和菓子を模したぬいぐるみだった。唐揚げは少し冷めていたが、自分の顔ほどもある綿菓子は手に持っているだけで心がふわりと軽くなった。しかし祭りを楽しむ度に、楽しそうな家族連れや友達連れをみる度に、太鼓の音が心に刻まれる度に、さとみの足は無意識に石畳を照らす祭り灯籠から離れていった。

高らかに響き始めた笛囃子を、さとみは少し離れた老木の傍で聞いていた。この笛の音が途絶えたら、また明日が来て、明後日の章テストの勉強をしなくっちゃ。それから大好きなあの本を勉強して、友達に手紙の返事を書いて、そうだ、あの子にこの前のお礼も…。ぐるぐると走り続ける思考にだんだんと疲れてきて、さとみは息をついた。高校生で生真面目なさとみにはやりたいことややるべきことが尽きない。なにかを楽しんでいるはずでも、未来に対する不安と焦燥感ばかりとめどなくわいてくるのだ。

「なんだか、疲れちゃった、ね。」

重くなってきた頭を上げてなんとなく傍にあった老木にそう話しかけたとき、傍の小さな雑木林を抜けたひゅるるとするどい風が吹いた。どこからきたのかプールのにおいと、生い茂る草のにおいと、立ち並ぶ屋台のにおい。初夏をぎゅっとつめたようなその風に目をつむると、頭に鈍い衝撃が走った。まぶたを開けて頭を跳ね返り足下に転がったそれを手に取ると、それは大きく育った梅の実だ。

もう梅の実る季節なんだ。手のひらでころがすそれはさらさらとしていたが香りはどこまでもツンとみずみずしい。それだけで塞ぎがちだった気持ちが少しだけゆるんだ。

「美代?美代じゃあないかい!」

背後から聞こえた少し枯れかかった少年の声に、びくっとして振り向く。しかしさとみは声の主を見てさらに驚いて固まってしまった。ふわふわで少し大きな三毛猫が、手ぬぐいを被って二本足で立っていたからだ。

「見てくれ美代、俺ぁ、あれからてぇへんな修行して猫又になったんだ。これからは俺も力になるぞ。美代も茶店も守って、嫌な思いもぜってえにさせねえからな。帰ってきてくれてよかった。美代、美代、俺ぁ、あれからずっと。」
放心したまま猫又に抱きつかれ、美代はバランスを崩して梅の木に倒れ込んだ。
「ごめんなさい、人違いです…。」
でるかでないかのかすかな声でなんとかそう伝えたが、猫又は聞く耳を持たないようだ。
「そんなはずねえ。美代と同じ浴衣だ。美代のにおいがする。」
「でも、人違いだもん。」
状況についていけないさとみが震えながら涙を落としたとき、猫又ははた、とさとみを見上げてしがみつく爪を引っ込めた。
「すまねえ、俺にはつい昨日のことみてえなんだが、もう百年以上の時間が経ってるんだったな。この、美代が植えた梅の老木が何よりの証だ。」
「この木?」

見上げた梅の大木は大きな枝を広げて鬱蒼としていたが、さとみの声に応えるようにさらさらと葉を鳴らした。
その猫又の名前はニシキといった。ニシキはさとみの浴衣を汚してしまったこと驚かせてしまったことを詫びに詫び、いわれるままに木の下で待っていると、どうやったのか屋台からイカ焼きを二本買ってきて、一つをそっとさとみに渡した。

「美代ってえのは、この梅の木を植えた子の名前なんだ。ここは昔、春になるとそこらじゅうに梅の花が咲いてな、暖かなお天道様と梅花のかぐわしい香りでいっぱいになる梅園と茶店があったんでさぁ。もう何の面影も残ってないし、きっとだれも覚えてないが、ちょうどこの場所に茶店と、そこで働く美代がいた。ここにくると気が遠くなるほどの距離を歩いてきた旅人も、当時は珍しかった外国人も、疲れが癒えて、ぱっと明るくなって、嬉しそうに顔をほころばせたんでさぁ。ここにいる人はみんな気前がよくて、ぼろくって汚くって見目の悪い野良猫だった俺にもみぃんな優しくしてくれた。中でも美代は雨の日に雨宿りさせてくれたり寒い日に着物をかぶせてくれたり本当に優しかったんだ。」

さとみはふとあたりを見渡した。大きな梅の大木に、ざわざわゆれる雑木林と人の手を忘れたような空き地。そんな閑散とした情景であったが、ニシキのいう景色を頭の中で重ねると、幸せな気持ちが少しだけ分けてもらえるような心地がした。

「ニシキはその茶店が好きだったんだね。」
「…ったりめえよ。」
ふん、と長いひげを揺らしてうなづく。

「でも、店の人が居なくなって美代が泣いて、気がついたら梅園も店も跡形もなくなってたんでさぁ。タダの猫でなんの力もなかった俺にゃなにがあったか何もわからねえ。本当なら梅がほころびはじめるはずの寒い日に、なぜか俺はひとりぼっちになってた。最後に見た美代は泣きながら梅の種をこの場所に埋めて、知らない人と一緒に消えていく姿だった。」

ニシキは何もできなかったことが悔やまれて、一人九州へとゆき猫又になる修行をしてきたのだという。ニシキの話はさとみにとってにわかには信じがたかったが、在りし日の風景とニシキのうなだれる姿をみていると、なんであれニシキを励ましたい気持ちになった。とはいえ、いかんせん猫又というものがどうすれば喜ぶのかがわからない。猫又というものを撫でたことはなく、ニシキの悲しみは十七歳のさとみにはあまりに深く、片鱗しか知ることができないので励ましようがない。伸ばそうとしては止まり、引っ込みつかない手を空中にさまよわせながら、さとみはふと、この老木のことを知っていることを思い出した。

「わたし、ここにあった梅園やお店は知らないけど、この木のことは知ってるよ。長い間荒れ地だった場所にこの木だけが立っていて、大きく育つみずみずしい実で旅人やこの地域の人の喉を潤した『悲しみを癒す梅の木』だっておばあちゃんに教えられたよ。『悲しみを癒す梅の木』を枯らさないように代々この町の若い人が大切にしてきたんだって。」

だから私、子供の頃からこの木の傍にいるとなんだか安心できたの、とさとみがニシキをのぞき込んで微笑むと、ニシキはばっと顔と二つに分かれたしっぽをあげた。

「それは本当か、さとみ。」

「うん、だから今でもこの場所はみんなを癒す大切な場所だよ。」

昔ほどのにぎやかさや広さはないかもしれないけど、と申し訳なさそうにさとみは手に持っていた梅の実を渡したが、ニシキは、そうか、そうだったのか、破顔した。ほんの少しだけでもあの場所が残っていたんだなあ、と黄緑と黄色に染まった梅の実にほおずりをして、ぽろぽろと涙を落とす。さとみはこのとき初めて猫又にまっすぐ手を伸ばした。さわり心地は普通の猫と変わらなかった。ビロードのようになめらかで柔らかく、長く触れるほどじんわり熱が伝わる。ニシキは自覚があるのかないのか、ごろごろと喉を鳴らして梅を大切そうに抱えさとみにすりよった。

「さとみはなんでここに?悲しいことでもあったのかえ?美代と同じ浴衣を着ていた縁だ、いくらでも力になろう。」

ニシキはつり目を細めてさとみの手を取った。

「わ、私は、ニシキにくらべたらちっぽけなことだから。」

「悲しさにでかいもちっぽけもあるもんか。なんであれ、それで心がいっぱいになったらその人にとってはめいっぱいの悲しみだろい。」

そうかなあ、とうたぐりつつも、ニシキは力になるといって聞かない。これといってつらいことがあったのではないのだけれどね、とさとみはゆっくりと一人老木で休むことになったいきさつと、焦燥感と不安に悩んでいたことを話し始めた。ニシキはその言葉の一つ一つを捉えて重々しく相づちを打っていたが、話しを聞き終えて口を開けた。

「すまねえ、いくら猫又でも感情のこたあ、にっちもさっちもいかねえよ。」

さっぱりと断られたが、元々解決することだと思っていなかったさとみは苦笑しながら、ううん、私こそごめんね、と膝を抱えなおした。

「俺ぁ、この場所一面に梅の花が舞った頃がつい昨日のように思えるのに、すっかり面影がなくなったのを見ているとあの日がゆめか幻だったのかなと思えてしまうときがあるんでさぁ。まさに荘子の『胡蝶の夢』よぅ。夢だったかうつつだったか、俺が蝶だったか猫だったか猫又だったか、てんでわからなくなるんでさあ。でも、そんな時間が長かったから、それと同じぐれえ明日が夢か幻のように感じるよ。」

「私にはそうは思えないよ。明日というものも今日というものも、いつも重くのしかかる。がんばらなきゃ、いい日にしなきゃって。楽しみな明日ならたくさん期待と焦りを抱くし、見えない明日は真っ暗で不安ばかりをのしかけてくるよ。」

「それはさとみが過ごした年月が短いからじゃないかえ?」

「そうかなあ」

「…どうだろうなあ。」

 

 

猫又は頭にかぶせていたたてぬぐいをつかんできゅっきゅっと結び始めた。

「でも、さとみが今日の祭りを楽しめることくらいは手伝おう。どうせ今日のことも明日になれば幻になっちまうんだ。どうせ同じ幻なら今日うんと楽しもうじゃあねえか。」

「でも、わたし、きっとやることがたくさん…。」

「てっ、そう思ってるのは案外さとみだけかもしれねえよ。ヒトの生も、猫の生も、いいことばっかりじゃないんでさぁ。嫌になったときに逃げたって罰ぁあたんねえよ。無理して病気になりでもしたらそれこそつまんねえことにならあ。」

そこまでいわれてしまうと、さとみはまだ少しもやもやしつつも反論しようがない。なにより、目の前の少しそそっかしくて面倒見のいい猫又のいうことだ、観念して今日は楽しむのもいいのかもしれない。

「じゃあ、よろしくおねがいします。」

それを聞いたニシキが得意げにさとみの手をとるとまた強い風が吹いた。初夏の香りに混ざって少しだけ梅花の香りがする。手から肉球や毛の感触がなくなっていく。薫風に驚いて閉じていた目を開けると、猫又は紺の浴衣を着た青年になっていた。

「よし、行くぞ。」

***

「宴も酣(たけなわ)かな。どうだ、楽しかったかえ?」

「うん。久しぶりにたくさん笑った。」

たくさん土産を抱え、人に化けたニシキがどろんと猫の姿に戻りながら振り向くと、さとみは確かに心から楽しめたようで、だいぶ表情もやわらかくなっていたようだ。しかし、ニシキの質問で終わりを感じたのか少し寂しげに目を細めた。

それを隠すように、多くの出店にはしゃいでずれてしまったニシキの手ぬぐいに手を伸ばし、ゆっくり結び直す。

「ニシキはこれからどうするの?」

「さとみの話を聞いたからには、美代の木を守り続けるしかあるめえ。悲しみを抱えて美代の木にすがった人をうっちゃっておけねえからな。」

さとみの手に照れくさそうに、ニシキはそっぽを向いてこたえる。

「またきてもいいかな。悲しいことがなくても。」

「ったりめぇよ、時々その浴衣姿を見せにきてくれ。」

「うん。」

いつもと同じ時間に目覚ましが鳴り響いて、なれた手つきでふとんから目覚ましを切る。さとみはふとんから少しだけ顔を出して天井を見た。不思議なことに、あれだけのことがあったのに、やっぱりつい昨日のことが夢だったかのような心地がする。今朝はいつもよりどこかすっきりはしているが、昨日の晩の出来事が本当にあったのかすこし心配になった。誰かに話しても決して信じてはくれまい。慌ててサンダルをひっかけて『悲しみを癒す梅の木』の元へ走った。

見回すと、梅は元の実を結んだ梅のまま。

「ニシキ…?」

不安げにそう呼びかけると、木の根本に寝ていた猫がすこし迷惑げにみゃう、と鳴いて、にたり、と笑ったのだった。

この記事を共有する!