『とまらぬ、かざぐるま』

“このトンネル、こんなに長かったかな。”
そんな疑問が浮かんだとき、僕はすべてを悟ったんだ。ああ、このトンネルを抜けたとき、君はもういない。
僕らはみんな、山に囲まれた小さな町で生まれる。祝福の赤い花に彩られ、新しい光が生まれ続ける、暖かい、場所。優しい緑が僕らを抱き、空のように透き通った冷たい水が滴るその場所で、僕らは目隠しをされたまま幸せなときを過ごす。けれど季節はめぐり、花は移ろい、風車は廻り続ける。緩やかな時間はやがて終わり、僕らはみんな列車に乗ることになる。その歳はまばら。方向もまばら。目隠しを取った僕らは本当の悲しみと、それに相応する喜びを知ることになる。そう、それはひとつの終わりであり始まりなんだ。

 

『みかんのかおる』
僕も気がついたらこの列車に乗っていた。少しすすけて、真っ白とはいえない壁と紺の座席。開かれた窓からはしきりに蜜柑の香りを乗せた風が入り込み、僕の手にある風車と遊んでいた。どれだけの時をこの列車で過ごしたか。むしろ、それを考えなくなってどれだけの時が過ぎたのか。そんなことは考えなかった。

「ねぇ。」
向かいに座るこの女の子を僕は知っている。この女の子も僕を知っている。
「私たち、同じ列車に乗って、同じところへと向かってるんだよね。」
片手で髪なでながら、伏目がちにその子はつぶやいた。僕は少し微笑んでそうだよ、と返すとその子は顔を上げてうれしそうに笑った。
「じゃあ、私たち、ずっと同じところを目指していける、仲間、だね。」
「うん。僕たちは一人になったりしないね。」

僕らはちらちら列車の外を気にしながらいろいろな話をした。外では雲を切り裂いた深い青空に太陽が絶えず光をもたらしていた。それに答えるようなエメラルドの海と海岸線に立ち並ぶ蜜柑の木。枝の折れそうなほどたわわになっているその実はその独特な澄み切った香りを放っていた。陽炎がすべての境界線を無に帰して、車窓にすべてが溶け込ませた。
「きれい…。」

その子がそんな景色に一息言葉を添えると、目を輝かせてこちらを見た。
「私、この列車に乗って行きたいところに行くの。」
「僕もだよ。必ず行きたいところがあるんだ。」
「だけど、もう少しこの景色を見ていたいのかもしれない。」
「僕だって。でも、ほら――…。」
指差す先に、ひとつのトンネル。墨汁をこぼしたようなそれと、その先の真っ暗闇。それはあっという間に近づき、口を尖らせたその子をさらった。

 

『トンネル・1』
「もっと見たかったな。あのきれいな海。」
「本当に、きれいな空だったよね。」
闇から聞こえた声に僕はすぐ返した。トンネルの中は光ひとつなく、輪郭でさえ僕に教えることはなかった。あの町でしていた目隠しのように。けれどトンネルの闇は目隠しの闇とは違う。目隠しは、誰かがそばにいてくれていて、それが誰かもよくわかった。けれどトンネルの闇はそんな人の気配どころか、自分の姿さえも消し去ってしまい、残るのは僕自身の小さな小さな灯と孤独。誰もが恐れ、できるだけその苦しみを軽減しようと四苦八苦する時間だ。
「まだ、そこにいる?」

弱弱しくそんな声が響く。特に返事もすることなくたたずんでいると、その子は思い悩んだ様子が映されたような声でこういうんだ。
「私たち、本当は行きたいところ、少し、違うんじゃないかな。」
どうして、と尋ねるとくぐもった声で、同じものを見続けて同じところを目指していると思っていたのに…、とだけ返ってきた。陽炎の、所為、かな。
それにね、と少し整えた声でこう続けた。
「私に君は必要。だけど君に私は必要ない。」
闇が一気に払われて視界が開けたとき、その子はもういなくなっていた。

 

『さくらふぶき』
向かいに座る、この女の子を僕は知っている。この子も僕を知っている。
外は夜。月に照らされた桜の花びらがひとつ、またひとつ、風に遊ばれ闇を抱えた川のせせらぎを撫でていく。流れるような黒髪に見とれていると、彼女は微笑んでこういった。
「大好き。私、あなたが大好き。」
「ああ。ずっと一緒にいよう。」

僕の風車にそっと息を吹きかける彼女。まばゆく、銀色に光る月が照らす彼女の顔には少しだけ不安が浮かんでいた。トンネルの先でも、一緒にいられるかを不安がっているのだろうか。大丈夫、きっと、大丈夫。僕は彼女の髪についた花びらを取るそぶりをして、強く彼女を抱きしめた。そんな僕らを祝福するかのように桜が窓から舞い込んだ。僕はこの女の子をきっと愛している。彼女もきっとこの僕を…―。トンネルがこわい。来なければいいのに、そう彼女がささやいた時、あれほどまぶしかった月が彼方へと消えてしまった。

 

『トンネル・2』
腕の中にいた彼女はいつの間にいなくなっている。そうか、ここはトンネルか。
「こわい。」
彼女はしきりにそうつぶやいた。
「大好き、大好きよ。」
彼女はしきりにそう嘯いた。

闇の中で特に意味のない声を掛け合いながら、なかなか抜けることのないトンネルの中で、僕らは少しずつ悟ったんだ。だけど、それを僕から切り出すことはしないんだ。僕は彼女を愛しているはずだから。瞳をとじて、ただただ今まで見てきた美しい景色を思い浮かべていた。けれどどれもどこかぼやけていてはっきりとは思い出せない。からからと乾いた音を立てながら廻る赤い風車だけ、なぜかはっきりとまぶたの裏に映った。

「こわい。そばにいてほしいの。こわいの。」
大好きとはいわなくなった彼女が、ふと、そうささやいた。そう、と一呼吸おいて彼女は震えた声で言う。
「私、愛していたのはあなたじゃない。愛していたのは私。私自身だわ。」
ああ、時がきた。僕は淡々と耳を傾ける。
トンネルの中、一人でいるのが怖かったの。ただ、自分の身を案じて、だから、あなたのことを愛そうと…だけど、それは……。」
「愛、じゃない。って言いたいんだろう?」
僕も同じだよと、慰めにもならない嘘を吐いてみたけれど、彼女の嗚咽が止むことは無く僕はまた目を閉じた。だってとうの昔に知っていたことだ。幸せは真実をひた隠すから。
光をこの身に感じて目を開いたとき、彼女はいなくなっていた。僕は風車にそっと息を吹きかけて静かに窓に寄りかかった。

 

『ゆらぎのくに』
この列車の乗客の数は、トンネルを抜けるごとに変わっていく。けれど大抵十人前後くらいだろう。広々としているはずなのだけれど、なぜかそうは感じない。きっと窓から見える景色が、この列車の中よりもずっと広いからだろう。それは、目に映る景色が海中である今も全く変わらない。
「…窓を開けられないのが残念だなぁ…。」

向かいに座る君がそう言ってため息を吐いた。僕は君を知っている。君も僕を知っている。今まで出会った誰よりも強い光を瞳に秘めた君。そんな君が向かいに座っているなんて不思議なくらいだ。一緒にいると僕まで強くなれそうな気がする。
瑠璃色、というよりは露草のように冴えた青色の明るい海の中。ばら撒かれた宝石のような魚たち。それだけの気高さを持っていながら魚たちを窓に張り付いてみている君がなんとなくおかしくって僕は思わず笑みを漏らした。
視線を落とすと風車が止まっている。そうか、ここでは風が入らないから。なんとなく寂しい気がして指で少しだけ風車を促すと僕はまた視線を外に戻した。

「海中ってさ、絶えずゆらゆら揺れ動いているよね。」
「うん。けれど地上の風とはまた違う感じがするよね。」
「…私が行きたいところになんだか似ている気がするの。」
「本当?実は僕もなんだ。」

光までもが揺れ動く海の中。だけど不思議と怖いという気はしないんだ。きっと近づいているって証拠だから。早く新しい場所にいけたらいいと思うから。その先に君もいたらうれしいけれど…新しい場所に行くには必ずトンネルを通らなきゃいけないから。
「トンネルの先も一緒だと、いいね。」
気がついたら初めてこんな言葉を口にしていた。君は少し寂しそうに微笑むと、そうだね、とつぶやいた。
「けれど私、離れてしまっても嘆かない。」
「え?」
「縁があったらさ、同じ思いを抱き続ければきっとまた……ね。」
いつの間にか列車内でふわふわ泳いでいた赤い金魚を爪先であやしながら、優しい声でそう歌うように口ずさむとまっすぐと僕を見た。そしてその視線の奥はトンネル。

 

『トンネル・3』
いままでたくさんのトンネルをくぐってきた。短いもの、長いもの、暗いもの、ほの暗いもの、本当にさまざまなトンネル。なんとなく、わかるんだ。長いもの、暗いものほど僕らの心は離れやすいことが。
トンネルの中、口数少ない君。声に出さないから誰にもわからないけれど、きっと一人で耐えているのだろう。瞳に移る闇はきっと同じではないから、その苦しみはどれ程かを知ることは無いのだけれど。
なぜだろう。君はこのトンネルの中でも微笑を失っていない気がするんだ。大丈夫。あの海の中は一度通った場所のはずだ。だからトンネルの長さだってなんとなく覚えている。たぶんそんなには長いものでは……。
“このトンネル、こんなに長かったかな。”
そんな疑問が浮かんだとき、僕はすべてを悟ったんだ。

ああ、このトンネルを抜けたとき、君はもういない。
“けれど私、離れてしまっても嘆かない。”
そんな君の声が僕の内にこだまする。ああ、そうだったね。彼女は強いから、きっと僕さえしっかりしていればたとえトンネルの先に君がいなくても。

それにしても、長いトンネルだ。どこまで行ってもぬばたまの黒。
今日もこのトンネルの中、微笑を失わぬ君。もしトンネルの先に君がいなくても、僕は嘆かない。とまらない列車の中でひとり嘆くこともない。重なり、すれ違い、離れて。そしてまた、僕たちの道がまた重なり合うことを祈るだけだ。まばゆいトンネルの出口で。

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